5日間まとめたること。

12月4日から12月9日までまとめますね。

 

手術から1日経って呼吸器が外れるかと思いきや、尿の出が悪く腎不全の可能性があるので24時間の透析をしました。5日間ね。薬で眠ってて喋りもしないし動きもしない、まぁ若干足とか口が動くんですけどその主だった動きってのがないです。まぁ寝てます。

 

祖父の姉が泊まりに来てくれて寝られない母と私とずっと喋ったりもしました。

 

まだ生きてる祖母が死んだら寝るところがないって言って部屋の片付けが始まりました。祖父の妹と母の妹が家の中を綺麗にしていきました。にっころ、若干困惑してます。だってまだ生きてますし、回復の余地もまだあるみたいな先生のお話があったのでその片付けは嫌で嫌で怒鳴り散らして家から出したかったです。しませんでしたけど。茶碗とかお椀とか箸とか蔵から出てくるわけですよ。しかも曽祖父の葬儀の時に買ったやつが。それ見ると「あぁもう死ぬんだなぁ」って唐突に思うわけです。でも嫌なわけ私は。祖父みたいに三途の川に片足突っ込んで生きてる人じゃなかったからね、祖母は。毎日いつものルーティンこなして生きてきたんで、祖母自身が一番死ぬのが嫌で嫌で這いつくばってでも家に帰る気があったと思います。

 

祖母は少しは良くなったんです。目が開いて瞬きしたり呼ぶとこっちを見てくれたりしてくれました。呼吸器外れないんで喋りはしないですけど。「うわー!戻った!ばぁばが戻った!」みたいな。そのー、クララが立った!みたいなね。(伝われこの野郎)姉ももうこっちに来てて少しだけ気が楽になりました。気分だけね。

 

あと祖母が倒れたあたりから委員会が忙しくなって、うわって思ってました。あと、朝吐くようになりました。そこで体力が使われて朝はずっとぐったりしてました。でも100円使いたくなくてバスには乗りませんでした。今思えば使って乗れよって感じなんですけど、そこで祖母のもったいない症を受け継いでたんでしょうね。神経質なのも、声が大きいのも祖母受け継いでました。

 

毎日泣いて朝泣いて学校の授業中泣いて祖母が寝てる姿みて泣いて家帰って泣いて寝る前に泣いて、告白の返事が返ってこなくても泣かなかった私がめっちゃ泣いてて正直笑うわ。

 

部活も動かせない、委員会もよくできない、そして祖母も悪いし、祖父も悪い。なんだこれカオスかよ。病んでました。人に会いたくないし、全て悪口に聞こえて、朝吐いて疲れて、祖母が死ぬことを恐れながら、毎日学校に行くのって辛いですね。ツイッターにも現れなくなって。ツイッターって夢みたいな世界なんですけど、案外現実なんですね。無理だったなぁあん時は。病むと人ってこうなるんですね、よく覚えておきます。

 

12月3日はICUスカスカだったのに日が経つごとに人がいっぱいになりました。家族証がないと入れなかったので、外で待ってるときにある女性に会いました。自分が名古屋に行っている間にお母さんが倒れていたみたいです。電話しながら泣いてました。うちはまだ良かったのかなぁ。日曜で家にいたし、救急車もすぐ呼べたしなぁ。そう考えるとその女の人が何となくだけど虚しさの沼に溺れて一生抜け出せなくなっているように思えて手を出してあげたくなりました。知らない人だったのでしませんでしたけどね。

 

あと、病院においてあるカップの自販機のコンポタは美味しいので飲んだ方が得です。

 

祖父は血圧が高くなりました。リハビリの先生からは「連れがそうなりゃ心配になるよ、連れ合いなんだでなぁ」

 

そりゃそうか。病状を伝えてすぐ見に行って、一回もやったことないだろうなリハビリで頑張ってチューリップ折って持ってくとかどんだけ男なんだよ。尊敬。

 

とりあえずまた書きたくなったら書きますわ。

とりまこの辺で。

 

 

12月3日

祖母が倒れました。その日は祖父のお見舞いに祖母も行く予定でした。朝10時、私が起きてトイレに行くと祖母がうずくまっていました。すぐにおかしいと思ったので母を呼び救急車を呼びました。あの時の救急隊員の方には住所をいう際に郵便番号から言ってしまって申し訳なかったです。

 

病院に着き説明を受けると、血圧•体温共に低すぎて測れずショック状態であるということでした。ショック状態でも家から病院に着くまで意識があった祖母がすごいと思います。

 

「ここの病院では無理なので、救急車で別の病院に行きましょう。」と言われて別の病院に行きました

 

あ、ここまで私はずっと泣いてます。この時点ではずっと思っていた彼氏に突然わけもなく振られたくらい泣いてます。

 

「腹部動脈瘤破裂ですね。救命率は半々です。助けるためには手術しかないのでします。」

 

高血圧症だった祖母ならあり得ることだとは思いました。しかしながら、ここまで痛いとも言わないで正気でいる祖母アメイジング過ぎて言葉が出ません。嗚呼祖母や、あなたすごいです。

 

あ、ちなみに私は泣いてます。手術中に亡くなることもあると聞いていたので泣いてます。ものもらいができたばりに泣いてます。もう閉じても開けても目が痛い状態です。

 

祖母は手術の準備をしていました。輸血の管、点滴の管を通していました。輸血の管を通す時に「あ、ちょっと痛いなぁ」って言ってました。いや、そこが痛いならお腹は倍痛いでしょ、おいおい、そこはまだ序の口の痛さじゃねぇかよ…

 

手術室へと入るときに話しながら行きました。そして祖母最期の言葉になりました。

以下会話

わし「おばあちゃ、わかる?」

祖母「うん、わかる」

わし「頑張ってよ、気張っておってよ!」

祖母「うん、頑張るよ。

 

           あぁ、なんか夢を見とるようだな」

 

もう長くはないとわかりました。もう泣くしかなかったです。待ってる間、姉が来たり親戚に電話をしたり、だいたい6時間くらい待ちました。長いとも思いましたけど、私もいっそ死んでしまいたいと思いました。

 

姉、叔父、私がご飯を食べている時祖母の手術が終わりました。無事でした。麻酔をする際に血圧が下がったそうです。普通の人でも下がるらしいのですが、ショック状態で元々低かった血圧がさらに低くなるので三途の川に片足突っ込んでだと思います。よかった、曽祖父母ら先祖代々の仏様が祖母を連れて行かなくてよかったです。

 

リアルコードブルー状態でした。呼吸器の管をつけていたんですけど、ドラマみたいにがっちりブルーのやつがついてると思ったらただ管を入れてあるだけでした。違うんかい、おい。って思いました。次の日に呼吸器が外れるかもしれないと言われました。

 

入院に必要なものを買って家に帰ると11時を過ぎていました。とりあえず何かあると困るので居間で寝ました。けど寝られませんでした。12時に寝て2時に起きました。寝られなくてずっと泣いていました。母と姉と3人でずっと話しました。

 

 

 

祖父はその日、祖母が倒れたことを知りませんでした。知らせませんでした。祖母が話すなと言って合おうとしなかったからです。多分祖母自身が死ぬなんて思ってなかったんだと思います。後悔してるかと聞かれればしてます。会って話していればよかった、祖父も話したかっただろうにと思っています。